無神論者であれ有神論者であれ、生命の危機、不安をいだいたときなど、誰でもがとる行為は「祈り」であります。
ここでとる「祈り」には、ある意味、神仏の区別のない祈りであり、「ただひたすら、祈る」であります。なぜ人は祈るのだろう。
祈りにかりたてる根源的な力は、大自然、大宇宙に存在する「未知なる力」に対してだろう。または己の中に秘められている「潜在エネルギー」に対してかもしれない。
人間には極限状態になると全細胞が、バッと目覚めるときがあるようだ、例えていうならば事故の瞬間などが思い当たるだろう。なにかスローな映像をみているような。
わたしたちの心身は非常に不可思議である。自分には理解できない感覚が潜んでいる。
その理解できないエネルギーの使いかたを知る人は少ない。結果、メディアを騒がす事件を犯してしまう人たちが多々いる。
人間の潜在エネルギーは、例えていうならば「原子力」のようなものだ、「原子力」そのものには善も悪もない。
しかし使いかたを間違えると広島、長崎に落ちた原爆となってしまう。上手く使えば、わたしたちの道路や家庭を照らす発電機になる。
その分かれ道はどこで決まるのだろうか・・・
それはわたしたちの「おもい」によって決定される。
歪んだ心が、あなたをとんでもない方向にやってしまう。
または、いいふうに心がける習慣があなたを素敵な方向に導いてくれる。
「原子力」と同じように人間の潜在意識には「善悪」の判断はない。あるのは「あなたのおもい」しかない。
その「おもい」を鍛錬することが、わたしたちの人生の課題ではないだろうか。
しかし人間はある意味弱いもので、ほうっておくと、どうも悪い方向に行ってしまうものらしい。
それを意識して日々勤めることが修行ではないか。
わたしは毎日お勤め(勤行)をしますが、あれは自分自身に言い聞かせているのです。
「知る」ということと「理解する」ことは全く違うのです。知識はかえって害になることのほうが多いのです。理解したつもりになってしまい、身にはついていないのです。
身につけるということは一生の作業だとおもうのです。
よく書家の方が「字は一生をかけても勉強しつくせない」というのに似ています。
だから毎日、自分に言い聞かせるのです。続けることによって、いざピンチになったとき、その習慣があなたを救ってくれるものなのです。
良い習慣を続けることによって自己に内在する「潜在エネルギー」をコントロール下におくことができるのです。
仏様の存在は目にみえないかもしれない。しかし家族の絆の「絆」そのものが目にみえないのと同じで必ず存在します。
それらを感じることが出来るようになるか否かはすべてあなたの「おもい」にかかっています。
嘘とおもう人がいましたらまず、三ヶ月でもいいから実践してください。
「真言(祈り)は不思議なり、感受(心魂で感じとる)すれば無明(愚かな迷い)を除く」と弘法大師空海もおっしゃっております。
宝蔵院住職 吉川政瑛 |