人間の幸、不幸は現在の自分を取り巻いている状況ではない。
それはどこで決まるかというと、現実に起こった出来事を素直に見つめ、それ以降に起こるであろう出来事をよりよい方向に導くことのできる人が幸福であり、できない人が不幸である。
これが一見、簡単そうでなかなか難しい。
人間は自分の失敗をなかなか素直に見つめることができない。
例えば仕事場で上手く行かない人の愚痴は「会社が悪い、オレのことを認めてくれん」など数限りなく漏らす。
そんな人でも自分が手柄を立てたときは、人のせいにせず、自分の実力と勘違いするんですね。
素直になるということは難しいことですね。
素直とか謙虚といいますと道徳的に感じますが、仏教の世界では、自分がより良い方向にいくための道具なんですよ。
まずはその道具を揃えないことには、心魂の畑を耕すことはできないのです。
現在の社会では経済的なことばかりに目を奪われ、わたしたちは知らず知らずのうちに心身のバランスを失っている。
そのバランス感覚を取り戻すために寺院の存在があるのです。
寺院という言葉はサンスクリット語=梵語では「ビハーラ」といい。それは「安らぎの場」「病気で苦しんでいる方が治療を受ける場」という意味です。
今こそわたしたちには、仏教が必要なのかもしれません。しかし仏教は、ふと我に返ることができる人にしか伝わらないのです。
「お金が欲しい」といって売春する女性、楽して儲ける方法(詐欺、窃盗)がないかを模索する男性。
彼ら彼女らの心の中はきっと常に戦々恐々として傷ついているのだろう。
彼、彼女たちも「善縁(佛縁)」にめぐり逢っていたらまた方向が違っていたのかもしれない。
欲望(煩悩)がいけないのではない。欲は別の見方をすれば、エネルギーである。ただその使いかたが、他人を傷つけそして自分をも傷つけている。例えていうならば、化学物質が毒にも薬にもなるのに似ている。
泣いても笑っても人生一度、命は一回、リセットは出来ません。それらをどう使いきるかがわたしたちの目標ではありませんか。
人間の苦しみはどこに逃げても影のように憑いてきます。だったら己自身が変わろうではありませんか。
変わるためには、まずもって素直な心を自身にもつことが必要であります。その心を持ち続けるために、お参りという実践があるのです。
しかし人間は弱いものですから、それを続けて習慣化する必要があります。
良い習慣が身につきますと、人生が(現在の生活)感慨深いものになります。
一日でも早く、わたしたち一人一人の人生が心豊かになっていくことを切に願います。
繰り返しますが、わたしたちの社会は、かなり謙虚さを失っている状態であると思います。
社会が変わる前に、まず自分が変わろうではありませんか。
釈尊も言っております「この世は茨の山だ、下手に歩くと怪我をしてしまう。だからといって茨の山を鹿の皮で覆うことはできない。しかし自分の足を鹿の皮で覆うことはできる」
私たちが普段履いている靴のことですね。その仏教の靴がわたしたちには必要なのかもしれません。しかしその靴は素直な心でないと履くことはできませんよ。
宝蔵院住職 吉川政瑛 |