ある老夫婦が渋滞の時間帯にバスを待っていた。いつものごとく二十分ほど遅れてきた。
「こんな時間通りに来ないバスなら時刻表なんか必要ないじゃないか」と、おじいさんが言い放った。
するとお婆さんが「でも時刻表がないと、どれだけ遅れているかわからないじゃない」と返しました。
この老夫婦の問いかけは決して笑い話しではなく、今の社会の状態を示しているのではないか。
わたしたちはこの時刻表のように、人間にとって絶対的な基軸となるものを忘れているのではないか。
さきの話しのように、バスが遅れて来る事がいけないのではなく「どれだけ遅れている」ということを知ることが大切なことである。
その絶対なる基軸とは釈尊であり弘法大師空海、または偉大なる祖師がたの教えではなかろうか。
わたしたちは釈尊や空海のようにはなれないかもしれない。しかし彼らから、どれだけ離れた生活をしていることがわかれば、とても安心して生活していくことができるのではないか。
現代人はその基軸を経済的なことばかりに心を奪われ見失っている。
経済がいけないのではなく、それのみに心を奪われ、人間にとって大切な人格を高めることを忘れてしまっている。
常に他人と比較して心が枯渇し,妬み嫉みによって心身を痛めつけてしまう。
人間をやっていれば他人と比較することを避けることは出来ないかもしれない。しかし己の弱い心を見つめることはできる。そこからが本当の人生のスタートではないだろうか。
巡礼は、こうしたわたしたちの心を深く見つめるチャンスを与えてくださる。
あたりまえに思っていることを深く見つめると、あたりまえでなくなってくる。
例えば自分の存在ひとつとっても、この世に生を受けたことは奇跡であることに気付くだろう。
太古の昔より続いたこの命。ありがたいと想うかあたりまえ、と感じるかによって目の前にそびえる全ての景色が違って見える。
また、庭に生えている草ひとつとっても、自分の庭にあると、雑草といって掃除をしてしまいますが、山深く入って巡礼をしますと、雑草が野草に変わってしまう。
こういった心の目を養うことが幸福(信仰)の原点ではないだろうか。
一人でも多くのかたが大切な信仰を取り戻さないと世界はどんどん悪い方向に向かってしまうのではないだろうか。
たった一度の人生と命、「オレの命、わたしの命」といって駄々草に使ってしまっていいのでしょうか。私たちの命は仏様からいただいた命、と感じたとき人生は感慨深いものになるのではないでしょうか。
冒頭でお話しをしたバスの時刻表ではありませんが、正しい時間に着くことが大切なことではなく、どれだけ遅れていることを解ることが大切なのです。
時間通りにバスや飛行機が到着しようとしたら大惨事がおこります。
自分だけが正しい、と思うところに事故がおきます。自分の考えが正しい、自分の宗教だけが正しい、自分の国家だけが正しい・・・
巡礼の旅は不思議なことにわたしたちが忘れてしまいそうな感覚を復活させてくれます。
金剛石(ダイアモンド)も磨かなければ光り輝きません。
わたしたちも巡礼という修行によって光り輝くことができたら、とても素敵なことではありませんか。
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